Native Americanの大地へ


3/4 キャンプベルデ→フェニックス

今日も快晴だ。今日は、日本から来る私の母とフェニックスで夕方に合流する予定だ。この母は、私よりもたくさんの国を旅行していながらまったく英語が読んだり話したりできないので、ここ1-2日ずっとちゃんと会えるかどうか心配の種だった(笑)

■プエブログランデミュージアム■

なんといってもサンフランシスコで乗り換えがあるからなあ。日本から一応乗り継ぎサービスを旅行会社に手配してもらっておいたんだけれど、どうも家族のものが要らぬ心配をしたおかげで、母や私まで胃の痛くなる思いを味わうこととなった。

とりあえず不安を押さえて、17号線を南にフェニックスに向かう。途中雄大な景色を楽しみ、山頂でのいきなりの突風に驚きつつ、あたりに背の高い細いあの独特のサボテンが増えてくるともうフェニックスの市内に入る。車も結構増えて走りにくいが、砂漠の中の大きな町と町の名前のフェニックスの並木を見ると、なんだかテンションが上がってきた。(笑)

まだ母の到着時間まで時間があるので、飛行場の近くにあるプエブログランデミュージアムに行く。ここはフェニックス周辺およびアリゾナ南部に住んでいたホホカムの遺跡を見ることができる博物館だ。この周辺にはソルトリバーという大きな河があって、ホホカムは灌漑用水路を造ることで砂漠で農業を営んでいた部族だ。今も当時造られた用水路が利用されているところもあるらしい。その総延長は1000マイルにもなるらしい。もちろん機械など何もなかった頃の話だ。文化的にはメキシコのインディオの影響をかなり受けていたようだ。競技場のボールコートなどにそれがうかがえる。後半にはかなり大きな二層式の建物なども建てられていたようだ。今回はこの博物館しか見ることが出来なかったが、また機会があればじっくり壁画など見に来てみたいな、と思う。

さて、胃の痛かった母との待ち合わせも無事に済み(笑)聞いてみれば手配通りになんの問題もなく母は来ることが出来たようだ。出迎えの旅行会社の人は若い男の人だったらしく、空港でカレーうどんを2人で食べ、なんだかよもやま話を待ち時間中していて、楽しかったらしい。はぁー気の抜ける話だけれどとにかく良かった良かった(笑)


3/5 フェニックス→ウパトキナショナルモニュメント→ツバシティ

今日は朝から天気が悪い。17号線を北に戻り、フラッグスタッフを通りモニュメントバレーを目指す。

フェニックス郊外を抜けて山間部に入っていくと、雪が激しく降ってきた。視界も悪く、風も強い。高い木に囲まれているせいか道路状態もあまり良くないが、凍結防止用の砂を頻繁に撒いているらしく道が見えないほどには雪は積もっていない。

■サンセットクレーターの溶岩■


ミータークレーターに行った日もそうだったが、かなりな降雪量なのになぜスパイクタイヤもはいていない車で問題ないんだろうなあ。不思議だ。 2時間半ほどでフラッグスタッフに到着し、昼食をとる。サンドイッチを食べている間に雪はあがり、日が射してきた。ここから89号線を北へ15マイルほどのところにサンセットクレーターナショナルモニュメントの入口がある。モニュメントへの道を少し走ると、ビジターセンターがある。そこで入場料を払い、中の展示を見る。サンセットクレーターのできた経緯とその当時のこの周辺の状況、世界の地震や火山についての展示があった。このあたりはどうも火山地帯らしい。
サンフランシスコ火山地帯の火山錐と溶岩流は数百万年の火山活動の結果、コロラド高地南西部の二千平方マイルを覆っている。これらの強力な地下の力は、1064年から1065年の冬、ドラマチックに地形を変化させ始めた。サンセットクレーターは、溶けた岩が空中高く地面の裂け目から吹きあがり、小さな噴石や大きな火山弾が地上に落ちて固まって出現した。200年の間続いた断続的な噴火は、噴火口のまわりに大量の堆積物を蓄積し、1000フィートの火山錐を造った。もっとも小さくて軽い小片は、最初に吹き飛ばされ、灰とともに北部アリゾナの800平方マイルに降りかかった。おそらく、最初に起こった噴火と同じくその後続いて起こった二つの溶岩流、1064年のKana-A、1180年のthe Bonitoは劇的なものだった。それらが通った所にいたすべての生き物は破壊された。
最後の活発な爆発は1250年頃、鉄と硫黄を含んだ溶岩を噴火口から噴き上げた。 火山の縁に落ちた赤や黄色の酸化した小片はいつも見ることのできるあまりに鮮やかなサンセットの様に、強烈な熱を発し真っ赤に燃える火山錐を思わせる。(96年版パンフレットより)
ビジターセンターを出て少し走ると、溶岩流が冷え固まった所を見ることができる。雪がまた降り始めたので、サンセットクレーターの姿はぼやけていた。荒々しく流れていたであろう溶岩流を想像できるその地形は雪景色の中で不思議な静けさを持っていた。私たち3人のはしゃぐ声と雪の冷たさがそれを一段と感じさせる。

■ウパトキ遺跡■

クレーターの裾野を走り、いくつかのアップダウンを越え、目の前にペインテッドリザードがひろがった。天気が悪いので少し鮮やかさが半減しているものの、紫や緑、黄色や赤の大地が果てしなく続く。ああーこの向こうに一週間前までいたホピの大地があるんだなと感慨に耽ってしまう。母も初めて見る広大な荒野に度肝を抜かれてしまったらしい。「すごい。すごい。」を連発している。

まず、ウパトキの遺跡の前にすぐ近くにあるウコキの遺跡に行く。私はここに来るのは2回目だが、ウパトキの遺跡ほど大規模には残っていないけれど、大岩の上に残った遺跡がぽつんと荒野の真ん中にある様が好きで、今回も立ち寄ってみた。風化はどんどん進んでいるのだろうが雰囲気はあまり変わっていなくてホッとした。顔をまともにあげていられないほどの強い荒野の風が変わらず吹き荒れていた。

このウコキやウパトキ一帯は古代の部族、カイエンタアナサジやホホカム、モゴロン、コホニナ文化圏がちょうど交わるところに位置し、シナワと呼ばれる文化圏にある。位置的にもそうなのかここからでてくる遺物の数々は、色々な部族の文化を反映したものもしくは交換されたものが多い。アリゾナ南部に住んでいたホホカムの影響で、ボールコートもある。このボールコートでボールゲームの儀式的イベントを通してホホカムの塩や、綿、貝とアナサジのメキシカンインコ、銅、ターコイズ等が交換された。二つの文化を結びつける役目をになっていたらしい。支配したり搾取したりするでもなく、ボールゲームに興じ部族同志で交易をして暮らすそんな人々を思いながらウパトキを後にした。


■ウパトキ遺跡■

BACK HOME NEXT
NativeAmerican index

Copyright(C) 1999-2000 Secchan's Japan, all rights reserved.
since Sep.1999